第1849回例会(2026.2.24)を開催しました

第1849回例会(2026.2.24)を開催しました

松戸西ロータリークラブ 第1849回 例会 令和8年2月24日  

 

 

司会進行 山本 沖会員

 

点鐘 杉山 由祥会長

 

 

食事

 

 

 

会長挨拶 杉山 由祥会長

 

皆様、改めまして、こんにちは。先週のインターシティ・ミーティングにおかれましては、多くの皆様にご協力を頂きまして、無事に終えることができました。本当に急な企画のなかで、仕上げて頂き、そして引っ張って頂いた、石井ガバナー補佐、河合実行委員長、そして山本補佐幹事ですね、皆さん、改めて敬意を表したいと思います。本当にお疲れでございました。(会場 拍手 拍手)色々な方からIMの感想を伺ってますし、この場でIM後に、大類隼人さんはじめ、他のロータリークラブの皆様との懇親の場もありまして、いろんなお話を伺いましたけれども、やはり総じてとても大類さんの講演の評価が高かったなと、というふうに感じております。やはりロータリアン、沖縄首里RCに御在籍ということで、ロータリアンとしての視点と、世界中で活躍する医師の視点として非常に、示唆に富んだ、お話を伺えて、私もなんか、久しぶりにすごく良い講演を聞いたなと、いうふうに感じました。先日、地区大会でも、RI理事になられる四宮さんですか、お話も聞きましたけれども、ロータリーのなかで、すごく活躍される方の、話し方というかですね、講演の姿勢というのは、私自身もすごく勉強になるなと、感じましたので、是非、こういったことを、我々だけでなくて、周りにも広げて、会員拡大に繋げていければいいなと、思いますので、今後ともよろしくお願いいたしますこのIMが終わりまして、次は、5クラブゴルフ大会、そして、40周年と、なっていくわけでありますが、引き続きですね、今日は杉浦会員のクラブ研修リーダーとしての、歴史を振り返る卓話の、最終章ということになりますので、神谷実行委員長、中心に、あと数か月、しっかりとみんなで、走っていきたいなと思いますので、どうぞよろしくお願いをいたします。個人的にちょっと、世相の話も少ししたいのですが、昨日ミラノ・コルティナオリンピックが、閉会を致しました。私の知り合いも一人出ていたのですが、残念ながら、出場ができなくて、行っただけになってしまったのですが、一人、松戸にゆかりのある、女の子が、大変な注目を集めております。女子フィギュアの、中井亜美さん。17才。彼女は市川在住なんですね。もともとは、新潟の出身なんですが、現在は市川市に在住で、勇志国際高等学校という、通信制の、実は松戸市の新松戸にある、通信学校で、通っておりまして、実は流山での    にも出させて頂いたのですが、まさかこんなに、大活躍をするとは、思いませんでした。本当に、通信学校なんですが、結構いろんな家庭がありまして、今、通信制学校って沢山あるんですね。例えばそれは、不登校のための通信制の学校であったりとか、逆に芸能とかを目指している子たちの学校であったりとか、彼女はスポーツエリートコースというもので、世界中転戦するので、当然、このままだと、高校の授業過程がとれないから、やはり通信で、きちんと補ったうえで、どこかに必ず、   の場所を決めなければならないのですね。それで、初めて、高校卒業資格相当という資格がもらえるという事で、たまたまその学校が新松戸だったということで、大変注目をされております。

今回40周年で、松戸市にゆかりのある、専松卒業の、羽賀理之さん。こちらも、オリンピックパラリンピックの、金メダリストですので、やはりこういう、松戸地域の出身のゆかりのある、若い人たちを、いっぱい応援していくのも、我々の役目かなと、思っております。そこでですね、この話につながっていくんですが、皆さんに、今日チラシを(会場 笑)お配りさせて頂きました。会員グループで、明治大学出身者いないか。と、石井補佐から、水を向けて頂いたから、ちょうどよかったかなと思ったんですが、私は、大学院を明治、卒業でございまして、今、明治大学、校友会、いわゆる同窓会組織ですね、その松戸地域の幹事をやらせて頂いておりまして、今年その、地域支部が久しぶりに明治大学の、マンドリンクラブを招いて、コンサートをやることに、チャリティーコンサートをやることになりました。この明治大学のマンドリンクラブ、というのは、古賀政男さんという、昭和の歌謡界を代表する作曲家、国民栄誉賞まで取っています。大変有名な昭和歌謡の、帝王と言われる方が作ったマンドリンクラブでありまして、マンドリンという楽器を中心にして、いろんなコラボレーションをするところで、大変評判の良いので、今回は是非、松戸の未来を応援ということで、松戸ゆかりのアーチストとコラボしてもらおうということで、北翔海莉さんというですね、宝塚トップスターでありましたけれども、松戸市出身の松戸市特別観光大使もやって頂いている、北翔海莉さんと、コラボレーションをして、松戸の児童養護施設の子供たちを、ご招待して、そして、松戸の障害のある子供たちが、つくった、品を、来場者に配ることに、よって、その工賃の一部を、支援すると。という内容でございますので、是非ですね、松戸の未来を応援すると思ってですね、何よりも、私のノルマが、非常に多くて、(会場 笑)2000枚中、200枚私が売らなくてはいけなくて、とんでもないノルマを課されておりまして、もし買うときは、そこに電話しないで、ネットではなくて、私に直接、連絡頂きますよう、お願い申し上げて、今日の挨拶にします。どうぞよろしくお願いいたします。 

 

 

 

幹事報告 副幹事 吉田 健

松戸RCさん 3月例会変更のお知らせ

ポリオ根絶チャリティゴルフコンペの御案内

ロータリー囲碁同好会 台湾囲碁大会の御案内

RLI FT養成コース開催の御案内

ハイライトよねやま 

 

 

 

会員卓話 杉浦 昌則会員  「40周年を振り返る」

皆様こんにちは。「40周年を振り返る」ということで、たいして私貢献もしていないし、話すこともあまりないのですが、私は生まれが昭和21年で、西クラブが6月で40周年です。私は80周年なんですね。6月で。だから偉いわけではないのですが、そんなことも絡めながら、ちょっとお話したいと思います。今日は人数少ないので、後ろの方まで見えてしまって、恥ずかしいのですが、(会場 笑)私が入会したのが、1999年3月に入会しました。そのときの会長が、岡田庄一郎さんでした。そのときの会員数は、35名。それで35名のなかの、平均年齢が53才だったんです。私が入ったのが53才で入ったので、ちょうど自分がこの人たちの真ん中辺にいるんだと思ったんです。それで、それから27年経つわけです。今年で。27年経つとどうなったかというと、その人達のなかで、私より年長者の方、全員、もういないんです。退会された方も、いるんですが、ほとんど鬼籍に入られて、いなくなっているわけです。本当は私が一番の年長者なんですが、ここで成瀬会員に入って頂きまして、私より10才年上の、兄貴なんですがね、成瀬さんには、いてくれるおかげで、私は、ずっと若手でいられるのかなと、(会場 笑)そんなふうに思っているわけです。そうぞ、お元気で、いつまでも、(会場 笑)お願いしたいと思います。それで、ちょっと私の生まれたことの話から始めたいと思います。昭和21年6月というのは、戦争の玉音放送から、10か月目で私が生まれたわけですが、そのときは、日本はどうだったかというと、世界最貧国だったわけですね。昭和20年から、3年間、世界の最貧国、こないだ、大類先生が、(IM)来て頂きまして、こないだ夜、ここでお飲みになって、一緒に、食事をしたんですが、あの方が、もっと早く生まれていれば、ハイチとか、バングラディシュとか、遠いところ行って、ブルキナファソですか、そういうところに行かなくても、目の前が、日本が世界最貧国だったから、そこでボランティアできたんだろうなと、考えてしまったんですがね。それで、とにかく食べるものが無かったんですね。私も覚えていなんですがね。成瀬さん、先輩なんかは、よくそういう体験を覚えていらっしゃると思うんですがね。考えてみると、ひどい大胆だと思うんですね。同じ学校に行くのに、ハンカチ、ちり紙なんか、ちり紙なんか誰も持っていなくて、新聞紙を小さく切って、鼻を拭くのも、お尻を拭くのも、全部新聞紙でしたよね。そういう時代からみると、今は非常に、良い時代だなと思います。その最貧国が、復活のきっかけというのは、朝鮮戦争ですよね。昭和25年、私の女房が25年の生まれなんですが、そこで、朝鮮戦争が始まったおかげで、ロシアの傀儡政権の金日成、北朝鮮の、当時の領袖が、攻めてきたわけです。たちまち、釜山のほうまで、攻めてきたくらい、すごかったんですね。そのときに、アメリカが入って、押し返して、38度線で膠着状態になって、いまでも、そのまんまですね。戦争は終わっていないです。韓国と北朝鮮は。そこで休戦になって、休戦状態ですから、終戦にはなっていないです。講和も話がすすんでいないので。それから、その戦争以降ずっと、ロシアと、当時のソ連ですね。ソ連とアメリカの東西冷戦というのが、始まったわけですね。朝鮮戦争のときに、日本はここにいて、とにかく物資をどんどん送ったわけです。これが景気が良くなるきっかになって、日本は助かったというか、救われてきたわけです。その冷戦中は、日本は共産国の砦として、非常に大事な位置にあったわけです。だから、アメリカもイギリスも、終戦で自分もひどい目にあいましたが、それ以降は、日本がやることは、あんまり文句を言わなくなったんですね。それで、防衛のほうも向こうがなんとかしてくれる。アメリカがなんかバックにいるから、いいだろうと、いうことで、経済で前進して、当時のお父さんたちも、ずいぶん、よく働いたと思うんですね。ウチの親父なんか見ていても、熱があろうが、風邪をひこうが、なにしようが、仕事なんか、休んだことなかったですよね。それで残業、残業で、毎日遅く帰ってきて、そういう時代で、がんばったおかげで、私が24才くらいのときに、20年ちょっとで、日本は、今度は世界第2位の経済大国になったわけです。たった20年ですよね。22年ですね。正確に言うと。その時代を、私は生きてきたわけです。だから、すごいなというのは、日本のクオリティというのは、すごいなと本当に今でも感じますけどね。その世界第二位になる直前に、東京オリンピックがありました。東京オリンピックは、昭和39年、10月10日だったと思いますが、そのとき私は高校3年生で、私のお袋が踊りをやってまして、代々木国立競技場で、当時踊りを踊るというんで、三波春夫の東京五輪音頭、あれが流れるときにに、踊っていたんですよ。で、もう一つは、東京都だから、二つの曲を、出てって踊っていた。それに出たくて、出たくて、うちのお袋は、ちょっと具合が悪かったんですね。具合が悪いんだけど、どうしてもそれだけ終わらせたい。やりたいと。一生に、こんな機会はないのだから。と言って、でたわけですよ。オリンピックが終わって、すぐに親父と病院に行きましたら、直腸がん、手遅れ。だったわけですね。でも3が月から6か月くらいで、という話になってしまって、私は高校3年ですから、秋オリンピックが終わったころ、就職試験が終わっていたんですね。私の高校は、港区にあったんですが、進学が90何パーセントですね。当時は、高校生の進学率は、大学の進学率は、だいたい25%くらいだったんです。ほとんどが高卒で終わっていたんです。だけどその中で進学校ですから、9割以上が大学を受験するわけです。親父にこう言われたんです。暮れに近づいたころ、「お前の大学の費用、払えないぞ。」と、言われたんです。急に。それで、「どうして?」って、だいたいわかっていたけれど、お袋にものすごくお金がかかっていたんですね。当時、放射線治療って、滅茶苦茶お金がかかっていたんです。日本に機械が何台かしかなくて、その親父が、お袋のために、放射線治療やった。どうせ助からないのがわかっていたんですが、やったんですね。それで自分も翌年、定年、うちの親父は、日本国有鉄道でしたから、そのときに当時は、55才定年です。今じゃ若いけど、当時は55才で、終わりなんですね。だから、お袋次の歳になれば、自分の女房は死ぬ、というのはわかっていますから、そして自分が定年退職になってしまう。もう親父、正直言って、私なんかどうでも良いと思ったんですね。だから急に言い出して、「お前の学費なんて払えない。」と、それでも、なんとかして、私は、「これ、困ったな。」と、思ったんですね。今さら就職といっても、試験が終わってしまっている。それで、学校に行って金くれる学校ってないのかなと、調べたら、防衛大学と、海上保安大学があるんです。ここは、衣食住、かからないんですよ。全寮制で、制服から体操着、全部くれまして、おこずかいなんかもくれそうな感じなんです。で、食事ももちろんあるんです。国が、するんですから。当時から、防衛大学って、ものすごく難しいのは、わかっていたんですけど、そんなところ、受かるわけないなと。海上保安大学というのは、もう一つあるんです。同じようにやはり、全寮制で、お金がかからないんです。そこには、私は灯台コースを受けたんですが、灯台、今は無人ですが、当時は、灯台に人がいっぱいいましたから。海上保安丁は、灯台養成するんですよ。もう一つは、水路コースといって、船長、船の、もちろん通信士とか、航海士とかも、試験があるんですが、私は、とにかくそのなかで、水路コースというのが、やはり難しいんですね。競争率70何倍だった。それから、灯台コースは、50倍くらいあったんですが、僕自身がない。私、ウチの高校は、文系と理系にクラスが分かれていて、私数学勉強していないです。物理なんかも、やっていないです。だから、そんなのに、やはり理系の試験です。ああいういところはね。理系のところに行って、とにかく友達も、同級生たちも、「お前、なんとか、なるんじゃないの。」「行ってこい。」と、言われて、励まされ、行ったんですが、文系のものは、大丈夫だったんですが、理系のほうが、答えが解る前に、問題がわからなくてね、(会場 笑)これはもう、お手上げだと、言って、どうしようもなかったですね。そういうわけで、近所、ガソリンスタンドの親父のところに行って、「ちょっと働かせてくれ。」といって、働いていたわけですが、そんなスタートを切ったので、私は、世の中に、出るときに、ちょっと最悪のスタートを切ってしまったなと、というふうな思いがありまして、自分のなかでは、これは、自分で商売するしかない。将来。ですね。できれば、会社の組織を作って、何人も使ってね。そういう会社、企業にしたいなと、そういうふうに思ったんですが、でも、何をやっていいか、わからない。何の経験もなしに、金もないし、コネもないし、ということで、その3つが必要なんですね。やはり。将来。三つのCと、言われますけれども、キャリアーとしての、仕事がなにもやったことがないので、できるわけがないと。それから、キャッシュ、マネー。お金ですね。キャッシュが必要。それから、コネクションがね。やはりお客さんが、買ってくれるのも、いろいろと、人間関係とういのも、大事になるわけですね。その3つを何とかしないといけないというんですが、みんなほとんど、お金があれば、何かができると思っているんですが、逆なんですね。お金がなくても、できるんです。信用があればお金は貸してくれると。出してくれると。ということは、気が付いたんですが、でも35才まで、やはりかかりました。35才で、会社を作ったんですが、そのオーナーが、55%取られたわけですよ。株を。私が45%。敵うわけないですよね。で、わがままなオーナーですから、そのうち、喧嘩になるなと思ったけど、喧嘩になりそうな、ずっと喧嘩ばかり、最後はしていたんですが、5年くらいは辛抱しようと、思ったけど、ちょうどその35才で、行ったときに、今思えば、40才くらいで、なった5年目くらいに、この西クラブのロータリークラブができたわけです。でも、私は知らないです。ロータリークラブも。ロータリークラブの名前は知っていたんですが、西クラブのことなんて、何も、まだわからないわけで。そのときはまだ、東京でやっていたわけですから。それで、そのころはバブルがちょうど、弾ける前で、景気が良かったですから、会社で、5年間のうち、土地も買ったりして、やっていたんですが、それが結果的に、株を、資産を、値上がったりしてて、それを株を買い戻してもらったら数千万の金になったわけですよ。それでまた、今度は市川に出てきて、今度は私は、オーナー社長のね、これをやりたかったわけです。最初から。ちょっとわき道にそれたんですが、誰にも文句を言われることがない。俺一人でなんでも決めてできるんだと、喜んでやったんですがね。それが、41才のときですね。始めたんですが、だからちょうど、西クラブができたころ、私も、心機一転、市川で、ゼロから始まったわけです。おかげさまで、そのときは、まだまだ、景気が良かったんですが、それの波にのってね、葬儀関係の市場でしたから、そこでううまく、食い込んで、なんとか食べられるようになったんですがね。それで、私の業界の仲間に、写真のカメラのみき というのがいまして、三浦さんというのがね。彼が、私、結構、あの人は逆に私の10個下なんですがね。仲良く、飲みあっていたんですね。それで、よくロータリーで、遊んだ話ばかりをしているんです。あの人。ロータリーが、何が役に立つとか、そういう話が一切なくて、ロータリーで、こんなことした。とか、あんなことしたとか。楽しそうなことばかり言っているんですね。それで、杉浦さん、来てよ。来てよ。ということを、随分言われまして。私は、ロータリークラブというのは、存在はわかっていましたから、ただ、自分がまだ、行くほどの、その会社の規模でもないし、忙しかったし、それで、将来、経営者になって、そういうところから、お話があったら、私はライオンズクラブは、行かないと。ロータリークラブに、そのときは、行こうと思っていたんですよ。というのは、私の若い時の、お客さんで、本当に、しょうがない、ろくでなしの、ライオンズクラブの会員がいたんで。(会場 笑)これ、渋谷のライオンズなんですがね。刑務所はいったり、喧嘩ばかりしているのがいて、そいつ見ていたらね、絶対にあんなところ行くか。と思いますよね。それで、将来、やはりまたまた、三浦さんからロータリークラブの話があったんで、ロータリーだったら良いかと、なんか名前から言ったて、ライオンズとか、脅かすような名前ですしね。ロータリーというのは、なんか、丸くて柔らかくて、いいじゃないですか。とっつきがいいですよね。だから、ロータリークラブに入って。それが、運のつきで、今日まで、続いたんですがね。

私がロータリーに、1999年に入会したときに、先輩の会員で、今も西クラブにいらっしゃる方は、何名もいますけれども、その方は、チャーターの福岡会員とか、川上会員、山田会員、浅野会員、石井会員、河合会員、宮野会員、神谷会員、と、8名まだ、いらっしゃるわけです。亡くなった方は、福岡芳弘様、この方は、第一代の会長ですね。福岡さんのお父さんですね。それから関口会員、関口さんのお父さん。昨年亡くなられた。その後、順不同ですが、渡辺綱彦さん。臼倉 玄純さん。秋元 勝造さん。岡田庄一郎さん。佐々木征四郎さん。村田 稔さん。相川 修さん。竹内 俊夫さん。小菅 壽和さん。小菅さんは、私より年齢が下でした。亡くなられたんですが。この中の17名、他にも退会されて、亡くなったという方も、たぶんいるんじゃないかなと、思いますが、やはりこの、私が入ってからの27年間のこの時代で、これだけ、多くの方が、入れ替わったということは、これからまた、20年30年、ロータリークラブが続くんですが、ここではまた違う、姿になって、かならず生き延びてほしいですよね。存在してほしいなと、強く思います。それは。それから、結局私が40代の41才のときに、今の市川で仕事を始めて、そのあとに、バブルが弾けてきたわけですね。そうすると、そのころに、東西の冷戦も、終了するわけです。ソ連が崩壊して、今はロシアになりましたけれども、そのことがありまして、日本の存在は、なくなってきたわけですよ。ということは、欧米の日本に対して、冷たい。こと日本たたきが始まったんですよね。ですから、そのときはクリントン大統領、経済の黒船と言われましたけれども、向こうからいろんな圧力が来て、だから保険会社の入り込み、金融、銀行なんかも入り込み、日本の郵便局が、世界一の銀行であるはずの郵便局が解体され、小泉純一郎さんの、ときにね、解体され、そういうことが、本当に、日本の経済がバラバラにされていったのが、この戦後、30年はですね、次の停滞しているとよく言われますが、そういうことが始まったわけです。それで、2011年くらいに、もう日本は、中国に追い抜かれたわけですね。ようするに、アメリカがトップですから、アメリカに最終的には、叩かれるわけですよ。日本はね。もう日本の存在価値がない。お前なんか、もういいと。ということで、日本たたきの政策が始まって、それが、向こうからみれば、功を奏して、日本が落ち込んできたわけです。それでその代わり、中国が、今度は2位になりましたが。それで、いまは今度ね、トランプになって、はっきりとしてきたわけです。今度は中国を叩こうとしているわけです。ただ、どこまで本気で叩くかわかりませんが、本来の存在価値からいけば、日本の存在価値がまた、上がってくるんです。ロシアと中国と、北朝鮮が、ここにありますから、そこにやはり、日本が、共闘国として、ある程度、力を持っていれば、アメリカもいいんです。それが、無くなった時に、向こうは、こっち太平洋でてきますから。だからそういう意味で、日本の価値観がまた、上がってきているんです。ですから、この日本が今、千載一遇のチャンス、とまでは言わないけれども、良い時代に入りつつあるんですね。これよく見極めないと、日本が駄目だあ。と、言っているんではなくて、いままでちょっと自信を無くしていましたよ。ここ数年。ここ30年間ですね。ここから良くなるはずなんですが、ただ、トランプさんが、花火みたいにいろんなことを、上げちゃっているんで、難しいものがあるんですが、これは三度目の正直と言いますが。一度目は、日本が日露戦争までの日本。どこからなく、明治維新になって、明治になって、時間があまりないのですが、そのときには、当時はイギリスが覇権国だった。世界の覇権国だったわけですね。アメリカよりも力が強かったんです。技術的にもそう。産業革命は、その頃に起きて、ずっと第一次世界大戦が終わるまでは、イギリスがそうだったんですね。そこで日本に対して、異常にですね、ロシアやヨーロッパにも、アジアに拡大させないために、日本に強くなってほしい。と、言う時代が、ずっと続いて、最終的に、日露戦争まで行きついて、日露戦争に日本は、ロシアを叩いてしまったわけです。そのころが、一つの、良い時期だったんですね。その後に、日本が、だんだん満州国を作ったり、東南アジアに出ていって、拡大していったんで、今度は逆に、にらまれて、アメリカとイギリスに叩かれたわけですね。と、思ったら、今度は、朝鮮戦争で、また、新たにロシアが出てきて、それまた、ずっと長い間、日本は経済的に、無事に発展しつつあるわけで、でもそれが叩かれたということは、今、お話しましたがその叩かれた時代がまた、終わって、今度は中国たたき、ナンバー1は、ナンバー2を、たたくのが、当たり前の話ですから、ただここで、中国があまりにも強大になりすぎると、アメリカも手に負えないとなったときに、アメリカと中国が、とりあえず手を結んだときに、日本の価値は、何にもないですから、大変なことになると思いますね。で、そうならないように、やはり、アメリカと日本は、連携しながら、中国の、実際は強く見えますけど、あれ、張り子の虎みたいな分もあるわけです。非常に経済が停滞している、不動産は、ぐちゃぐちゃ。それから、大学出たら、即失業と、いうような、ことですよね。それから、中国には、エネルギーの資源がないですから。それから食料も、輸入しなければ食べられないという国ですから。昔の日本と一緒です。大英帝国も、資源がなかった。食料もないんですよ。それで戦争をおっぱじめても、なかなかそうは、いかないんですね。ロシアが強いのは、輸出国なんです。両方とも。資源も食料も。大輸出国なんです。それから、アメリカも、なんだかんだ言いながら、資源も食料も勿論大丈夫なんですね。ただ、ああいうところは、やはり、多角的で強いですよね。日本みたいなのは、あるいは、中国みたいなのは、経済がガタガタになったときに、将来はわかりません。という問題を沢山抱えている。日本よりも、もっとスピードで、少子高齢化が始まる。それから、いろんな民族の問題とか、ありますんで、あれが、中華思想というのは、北と、北夷といって、ようするに野蛮な連中がいるんですよね。北には。それから西の方には、西戎と言ってますけど、これは新 ウイグルとか、あっちのほう。それから、北はモンゴル。内モンゴルですよね。チベット、東南アジアも、その辺ですよね。ベトナムまで含めて。東のほうはないんですよね。日本、こちらがいるわけです。だから、それを、あの人たちは、とりたい。とったあと、どうなるかというと、野蛮な国だから、自分たちの力で、どうにかしようという話になりますんで、非常に危険な話ですから、中国をこれ以上、のさばらせては、絶対にいけないというふうに思うわけですよね。ちょっと政治的な話になってしまいましたが、申し訳ないですけど、そういうわけで、日本がロータリークラブが、一時戦争のときに、「アメリカのクラブをやっているじゃないか。」ということで、ありましたんで、一次国際ロータリーを脱退しましたけれども、今、またこうして、みんなでこうして、ロータリークラブを繁栄してますんで、これは永久に、日本が戦争に巻き込まれないように、するためには、どうしたらよいか。ただ、発展、発展と言ってもしょうがないですよ。今日、帰ってきたんですが、昔17世紀のフランスの数学者、パスカルの原理のパスカル。パスカルが言っているんですが、「力なき正義は、無理である。」と。ですから、戦争を起こさないためには、ただ、反対です。じゃなくて、やはり、一方で力を蓄えないと、日本は、やられますよ。という話ですよね。国力があっても良いんですよ。ロシアと、ウクライナで、あんなに騒がれても、4年も頑張っているんです。日本だから、やる気があるかどうか。そのための備えがあるかどうか。の話なんですよ。ですから、初めから中国にかなわない。んじゃなくて、そこを考えなくちゃいけない。なと、ロータリーが、ずっとこの後、50年100年続いてほしいなと、私は本当に思ってますんで、そのときは、もちろん私も、みんないなくなりますけどもね、そんなときを考えております。話が違うかもしれませが、終わります。失礼しました。

 

 

委員会報告

 

ガバナー補佐 石井 弘会員

2月17日IMにつきましては、河合実行委員長はじめ、皆様にご協力いただきまして、無事に終了することができました。どうも皆様、ありがとうございました。

 

 

稲葉のりひさ会員 次週40周年実行委員会があります。

 

お祝い披露

 

 

ニコニコ発表 関口 貴之会員

 

点鐘 杉山 由祥会長

 

閉会

2026年2月28日