第1653例会(2021.10.19)を開催しました

第1653例会(2021.10.19)を開催しました

 

お客様紹介

西島 サジー様(米山学友)・ご家族

会長挨拶

私の事務所の近くには「スワン」というとても評判のパン屋さんがあります。このお店は実はクロネコヤマトの宅急便を創ったヤマト運輸の元会長小倉昌男さんと、とても深いかかわりがあります。すでにお亡くなりになりましたが今日は小倉昌男さんのお話をさせて頂きます。

 小倉昌男さんはロータリアン、銀座新RCの会員でした。小倉さんはロータリアンであると同時に、「ヤマト福祉財団」を作って障害者の自立支援に当たられましたその事業所が「スワン」というとてもおいしいパン屋さんというわけです。ヤマト運輸はもともと関東を中心としたトラック運送をしていました。デパート(三越)の配送の下請けもしていましたが、そういう仕事を全部やめました。宅急便という今までどこにもなかったサービスが日本には絶対必要だと信じた小倉さんは、「そんな事業うまくいくはずがない」と社員全員が反対するのを押し切ってクロネコヤマトの宅急便を開発しました。1976 年サービス開始の初日の取り扱い個数はわずか11 個だったそうですが、現在は年間12 億個以上を取り扱い、私たちの生活に欠かせない、なくてはならない仕組みになっています。

 クロネコヤマトのサービスは「ダントツのサービス」でなければならない、と小倉さんは言います。「ダントツのサービス」とは、お客様に百%の満足を与えること、具体的には約束した日に預かった荷物をまちがいなく傷つけないで配達し、お客様との約束を絶対裏切らないこと、です。小倉さんが宅急便事業を始めるにあたって掲げたスローガンが 「サービスが先、利益は後」という言葉でした。

 小倉さんは「サービスが先、利益は後」というスローガンをクロネコヤマトのセールス・ドライバーに言い続けました。利益は考えなくてよい、利益はダントツサービスの結果である。だから「サービスが先、利益は後」というわけです。ヤマトの絶対目標は「お客様の立場に立って考える良いサービスの実行」でした。小倉さんが言い続けた「サービスが先、利益は後」というのは「サービス」と「利益」の関係を理解しない人からは「きれいごと」と聞こえたかも知れません。しかし、きれいごとでクロネコヤマトは伸びたわけではないことはよく知られています。今までどこにもなかったサービス、生活になくてはならないサービスとして世の中から認められたからクロネコヤマトは成長しました。

 私たちロータリアンには「サービスが先、利益は後」という言葉はすぐに腑に落ちます。ロータリーには二つのモットーがあり、それは“Service above Self”と“He profits most who serves best”の二つだと言われます。“Service above Self”は「超我の奉仕」、日本のロータリーの創始者米山梅吉さんは、これを「サービス第一、自己第二」と訳しました。もう一つの“He profits…”は「最もよく奉仕する者、最も多く報いられる」と訳されていますが、これも「ベストなサービスをすれば、結果として最大の利益を得る。」ということだそうです。小倉さんの「サービスが先、利益は後」という言葉はこの二つのロータリーモッ トーを凝縮した言葉のように感じられ、ロータリアンであった小倉さんならではの言い回しではなかったかと感じます。

 日本独自の「米山月間」である今月の締めくくりとしてご紹介させて頂きました。ご参考になれば幸いです。

 以上、本日の会長挨拶とさせて頂きます。ありがとうございました。

 

幹事報告

11月17日情報研修会ですが、松戸商工会議所にて行われます(中止の場合は、11月16日に例会)

10月31日、地区大会(WEB参加)

松戸市消防行政より出初式中止の連絡

松戸RCさんより、例会変更のお知らせ

国際ロータリー理事より 日本経済新聞 朝刊 10月22日 ロータリー100周年の全面広告が入ります。 

RI会長より 10月5日に開催された、第1回会長主催会議の様子が視聴できます。

MCRレポート9月分のお知らせ

2022-23年度 地区委員推薦のお知らせ

コーディネーターニュース11月号のお知らせ

風の便り のお知らせ

ハイライトよねやま のお知らせ

印西RC 事務所 送付先変更のお知らせ

スリランカ学友より 初代会長追悼式のご案内

 

西島 サジー様(米山学友)卓話

「東京オリンピック・パラリンピックに向けた、これまでの取り組み」

 

 

 皆さんこんにちは。大変ご無沙汰しております。私が奨学生時代、2011年に東日本大震災があり、もう10年になります。私のカウンセラー、いらっしゃらないのですが、忘れてはならないものですね。私が大学卒業した後に、オリンピック・パラリンピックの関係で、私が務めている山武市がスリランカのホストタウンになっています。残念ながら昨年度新型コロナの感染の影響で中止になりましたが、今年の8月9月にオリンピック・パラリンピックができで、嬉しく思っております。私がここまでこれたのは、松戸西RC、全ロータリアンのおかげなのでこの場を借りて、皆様には心から感謝を申し上げます。スリランカはそんなに選手たちがいなくて、オリンピック、9名パラリンピックも、9名。18名の選手団を受け入れました。けれども、コロナの関係で2年間、延期になり、選手たちにとって大変だったのですが、山武市で、選手を受け入れて、10日間くらい練習できるような、大きな練習場、成東運動公園を作ったのですが、それも使用することができませんでした。

 けれども市民の方々と職員が、選手たちを応援する、応援フラグ、応援グッズを作り、選手村まで送りました。これには、市民のメッセージが書いてあります。こういう風に応援したのですが、(写真を指定)これはオリンピックのほうですね。初めて馬術、体操で、スリランカを代表して来ました。これは、バドミントン。それから、400メートル走。柔道。水泳は、二人いました。一人がバタフライで参加です。このなかの選手4人、スリランカ出身なんだけれども、馬術の選手は、幼いころキャンディで生まれて、約4か月経ってからスウェーデンで、育ててもらい帰化せず、スリランカを代表となりました。その途中で、裁判とかあったのですが、なんとかオリンピックに初出場できました。残念ながら、私も見ていたのですが、本番で、飛んでない。飛べなくて、彼女は失敗しました。けれども、また2024年、オリンピックを目指しております。それから、今日お配りした、山武市の取り組みのなかに掲載されてますが、体操の選手。まだ学生さんです。日本のオリンピック委員会から奨学金を頂き、2年前日本に留学して、体操の練習をしております。彼女も今回初めて、オリンピックに出場したのですが、メダルには届きませんでした。スリランカでは、ほとんど設備もないし、難しかったです。これからがんばって頂きたいと思います。

 オリンピックでは、選手は金メダルを貰うことができませんでしたが、パラリンピックのほうは、9名出て、世界新記録で金メダルを獲得しました。御覧になった方もいらっしゃるかもしれませんが、やり投げで、(私たちもびっくりしたほど)66.4メートルの世界新記録です。素晴らしいですね。いままで、スリランカでは、オリンピックで1回もスリランカの国歌を、国旗を掲げることができませんでした。今回の東京で、初めて見ることができました。(写真を示し)ここにあるのは、私たちが贈った応援フラッグです。ディネーシュ選手が、金メダルを獲得できました。足がちょっと弱い方ですね、その方が、銅メダルでした。今回のパラリンピックは、スリランカにとって、良い結果でした。そのために、自分にとって初めて、山武市と一緒に応援して、私がロータリー奨学生だったことから、ロータリアンからの応援も頂きました。

 オリンピックまので5年間、私の活動を振り返ると、選手団を応援することではなくて、山武市とスリランカの懸け橋になったことです。市内の子供たちと、スリランカ交流事業を、市民の方と取り組み、2015年からスリランカ交流を始めました。私は2015年千葉大を卒業して、2016年から山武市に採用されました。私が入った後、毎年2018年まで、市内の子供たち12名を、スリランカに送り、スリランカの子供たちとの交流をしてまいりました。また、スリランカにいる学生選手たちを、山武市へ招聘しました。そういう活動ができたのですが、残念ながら、コロナで2018年以降は、できませんでした。また、2018年4月に、スリランカでの教会で、爆弾テロがあり、山武市の子供たち、スリランカに送る予定でしたが、中止となりました。スリランカ大使館へも、送れませんでした。そうしたこともあって、これから同じ交流ができるのか。他に子供たちと一緒にできることがあるのか。ということも、今、考えています。また、私が山武市に来てできたことは、スリランカを楽しめるスリランカフェスティバル。2018年に行うことができました。これは、私がスリランカの大学時代に教えていた学校の学生さんが、この真ん中に(写真を示す。)いるんですが、彼ですが、今、コロンボ大学の芝居、ダンスの教授をやっております。彼のダンスグループを山武市に連れてきました。2018年の5月1日2日、 西クラブからも大変な支援を頂きました。感謝の気持ちでいっぱいです。そのときのチケット代まで、いろいろ助けて頂きました。

 あと、歌手。(写真を示す。)この緑のサリーを着ているのが、スリランカの有名な歌手なんです。私が教えた学校の先輩なんですが、その方も山武市に来てくれて、大きなフェスティバルができました。前売りチケットとか、多くのメディアから、すごく評価をされました。2019年も、同様に準備して、応援をロータリアンからも、西クラブさんからも、他所のクラブからも、応援頂きまして、やろうと思ったのですが、できなくなりました。その後は、何もできなかった状況ですけれども、今、リモートとか、いろんな事で、山武市での交流をやっています。

 それから、市長を連れてスリランカを訪問したこともあります。これは当時のスリランカフェスティバルのとき。市長と教育委員会。大統領に会い、在スリランカ日本大使館、スポーツ庁、教育省、に行きまして、スリランカと山武市、日本の交流について話して参りました。(写真を指定)これは、当時のスポーツ大臣と、山武市。ここにいらっしゃるのは、パラリンピック委員会の団長でした。今年も彼が、東京に来て、山武市と話しをしています。これが当時のスポーツ大臣と市長で、山武市が2020年パラリンピックのホストタウンとして、選手を受け入れるということで、報告するために、いらしたところです。これは、在日本スリランカ大使館です。昨年のロータリアンの方々もご一緒に、石井さんが代表のスリランカクラブ。スリランカで日本語学校を建てるという話も、大使と一緒に話をしてきました。山武市とロータリアンとの話しがいろいろあり、話ができてきたんですね。そういう国際交流活動を沢山してまいりました。これは、まだいらっしゃる大使ですね。いろんな面で、こういう風に、スリランカ・シーロックにまで行って、学校交流も、多くの学校も訪問しました。これは田舎にある、一番貧しい学校なんですね。ロータリーから、柏東RC、中村先生から、毎年スポーツ用品を送って頂いている学校です。当時は、代わりに市長から、この学校に配布して頂きました。他はパソコンとか。パソコンも実際は、使えない学校でしたので、山武市教育委員会から、中古のパソコンを持っていって、子供たちに寄付してきました。いろいろ活動をしてきたんですね。山武市のなかでも、中学生、高校生を対象にした、英語のセミナーとか、また、国際交流活動。1校1国。いろんな活動をしてきました。この5年間のなかで。これが、私が当時教えていた、ロイヤルカレッジといって、スリランカでも最も有名な、一番大きな学校です。子供たち、1万2千人位。先生は、900人位教えている学校です。そこにも、市長をはじめ、教育長さんを連れていって、日本文化を学ぶ学生たちに、日本文化について教えてたり、日本中のこういう活動、どのようにすればよいか、ということを、セミナーをしてきました。

 私とメルビン一緒に、いろんなホストをやっていて、ロータリアン、スリランカクラブから、書道セットを頂いて、日本語を専門科目として、学んでいる学生さんに寄付してきました。こういうことができたのは、私がロータリー奨学を頂いていたからですね。もしなかったら、今の活動ができなかったかもしれないです。(写真を示す。)これが山武市のなかで、高校生を対象にする、ブリティッシュ・キャンプ。私が代表して、やっております。2016年から、今まで。今年は残念ながら、コロナでできなかったのですが、今年の12月にまた、ブリティッシュ・キャンプをする予定です。英語の先生にお願いして、やっています。子供たちもホストタウン山武市とわかっていて、いろんな活動を楽しめています。このときに沢山の学生さんが、60人くらい。高校生が、入りました。先程の写真ですが、もう一回、1000キロメートル。オリンピックまで、1000キロメートルという、東日本大震災が起こった福島、福島からずっと走っていく、山武市にも、2011年、大震災の影響を受けた町にです。そのこともありまして、毎年、こういう活動をやってきて、そのときも、外国人。特にスリランカ人も、選手が何人か、走るようになりました。私も、参加してまいりました。残念ながら、昨年がコロナで活動をできませんでした。そういうことができて、障害の方も、ご一緒に、楽しんでいる活動です。私が2016年、山武市に来たときは、外国人は、百何人かしかいなかった。スリランカ人は80人くらい。今、この5年間、今現在、外国人が、先月の30日、でみると、1200人。スリランカ人は517人。います。びっくりするほどすごく増えております。何故、山武市はスリランカ人が増えているのだろう。と、いうのが、NHKが、聞きますが、どうしてかというと、ひとつは、日本語ができない人。コミュニケーションが全くできない人が、商売に、山武市に参りまして、山武市で仕事をやる人ですね。高校にも近いし、大きな土地も安く買う。また借りる。そういうこともできているので、独身で来た人は、私が来た当時、「子供たちはどうしますか」と聞いたら、「スリランカで連れてくることができない。」「どうしてですか?」「コミュニケーションができない。」「日本語ができない。」「英語を勉強させたい。」いろんな理由でした。だけれども、私は、皆さんに幸せになってほしい。「家族を是非、連れてきれください。」と言います。「どういう手続きをしたらよいですか?」と聞かれると、「子供たちは、まず、日本語を学ぶ環境を作って、市内の学校に行かせます。」と。教育長と相談したのですが、教育長もすごく考えまして、外国人をサポートできる先生たち。市内の学校にも、30人くらいの子供たちが、小中学校に通っております。そういう事情もあったんですね。で、これも一つはホストタウン事業を、市民の方々に、し合った活動です。いろんなことができたなかで、課税。市民税。あとは、保険証。スリランカでは、病院も無料なんですね。自分に必要なものを受けて、病院を使っています。だけれども、日本は、同じと思った人が多くおりまして、100万円くらい、80万くらい、まだ、未納になっている人が大勢おりました。私が山武市で言っているのですが、みんな知らない。「どうして、病院に一度も行ってないよ。どうして、何故、これ払うの。」という、人もおりました。だけれども、日本では、日本人であれ、外国人であれ、みんな、供出でやることですよ。という。これは、良いこと。みんなでしてあげて、みんなで分割してあげています。そういったことも、私も市役所の仕方もわからない。日本語教室をして、しか資格がなかった私が、本当に市役所に言われて、やさしくいろいろ教えてくださったおかげで、私もできるようになりました。本当に、楽しい仕事を、していけるところですが、今はですね、5年間もいて、山武市のなかでも、スリランカ人、沢山増えてきて、活動もいろいろになってきて、次の方々も、私が行ったあとも、勉強することになりました。日本語教室の写真も。そういったこともできて、日本語できない人に、シンハラ語で、「アー ユー ボーアン」とか、御挨拶くらいでも、話しかけて、助けてくれるようになりました。

 ああゆう町をつくることになったのは、私が博士課程まで千葉大にいたことからです。私が、千葉大に行ったのは、ロータリアンの、奨学金を頂いたからです。それがなかったら、私はこういう風にスリランカに帰ったかもしれないですね。本当に、どこに行っても、どうしても、ロータリーの事を、私が忘れてはいけない事です。こういう食文化の、習慣も山武市のほうで、毎月、月に1回、メルビンと私が、スリランカ料理。スパイスから、やさしく教えてあげて、作ることになりました。今年の6月に、1校1国という、オリンピックの授業なんですが、松尾中学で、スリランカの文化、について、子供たちに教えに行ったときに、そのときに、NHKからも、放送があって、こういう活動が、山武市だけではなく、他の市、松戸市でも、国際交流が盛んでいる町だと思いますので、なにかありましたら、いつでも私に。話ができればと思います。私がこの5年でできた事、もうひとつは、他の市役所ではまだできてないようなんですが、山武市に主に必要なガイドブック、外国人向け。これは人数分持ってきてないのですが、まだ、完成してない。私が英語と、シンハラ語を担当しまして、ですね、完成までは終っていて、もうすぐ出す予定です。これ会長に置いておきます。もし、松戸市もこういう風にあったら良いなとか、外国人の方が、納税証明書を、取りたい。もしくは、住民税をとりたい。出産届をしたい。何もわかりません。何も知りません。全て日本の市役所が、日本語なんです。漢字がいっぱいあって、ひらがなあり、読めないですね。そういった場合は、私がいるから、その市役所のほうで、毎日かかわりがあるんですが、他の市は、どうやっているんでしょうか。という心配が、いつも外国人の目から見て、いつも思います。だから、もし、お手伝いできることがあれば、いつでも山武市さんと一緒でも、私が個人でも、お手伝いできるので、これ、全てやさしい日本語。やさしい日本語版で、やさしく簡単なシンハラ語。簡単な英語で、訳されていますね。もし質問があれば、答えることができますが、今日は、これくらいです。今日は、本当にありがとうございました。

 

2021年10月22日